あることないこと(永遠とか)

おしごと以外は楽しく過ごしていた。

楽しく過ごしていたのでおしごともほどほどにできたかんじ。

自分でもびっくりするくらいスタミュ愛がほとばしってとまらないのである。

 

連休終わったら12月にならんかな。

12月になっても賞与もらってワートリの新刊げっとして、オーケストラのチケット戦争に勝利することくらいしか年内すべきことがないな。

朝晩寒くて、川べりの草に霜がおりているのが見える。

手袋マフラーはもうないと困るけど、冬用コートはいつ出してくるべき?

 

 

精神的に安定しているからか、今の職以外の選択はこのごろ考えないのだけど、夢みたいに思い浮かべるのは「画廊のあるじ」か「傘屋」だなと思った。

 

いろとりどりの傘のつぼみがねむっている店。

いっとうの色はヘヴンリィ・ブルー。

むかし書いた雨女の子のお話を覚えているひとは、まだそんな夢をみているのかといぶかるだろうか。なつかしがるだろうか。

わたししか思い出せなくなって、わたしも思い出せなくなって、かけらしか残らなくても、たぶん雨は好きでいると思う。傘は特別だと思う。

 

夢が夢のまま現実を生きているわたしにまぼろしを見せるような、叶わなくてもそれだけでちょっと救われるような、そういうことがたくさんあってよいはず。

 

 

忘れっぽくつくられたから永遠のありかを何度も教えてもらう

水平線をあつめる

目がまわるほど電話に振り回されていた春、そのひとがそっと投げた海の動画(きらきらしてる波)を眺めてやすらいでいた。

北極にあこがれるひとの撮った海はさびしくてりりしかった。

友達からの手紙に、駅名と一緒に写った海が同封されていたこともある。

新しいLINEグループのアイコンも水平線。


また今日もどこかから海が流れてくる。

みんなの水平線をあつめて、つなげてみたら綺麗だろうな。


えいえんはこごえのことばえいえんをあげたらひとはうたになるしか

生活のひび

むくげの花って好き。
わりと夏の暑いころから咲いてるんだけど、その終わりごろ、秋のはじまるころの花が好き。ようやくすずしくなってきた風に、うすい花びらをふるわせて、ほっと息をついているようで。


『ワイルドフラワーの見えない一年』という本の、表題作を読んだ。無名のひとびととありきたりな野の花がぽつぽつすれちがったりとなりあったりするお話だった。

記憶のなかに花が咲いているような感覚ってある。
具体的な花ではないけど、そういうさりげないもの、さりげないけど、ちょっと救いになるようなものがそこにあるような、気がする、感覚。

生活のひびわれ。
一年目のばかみたいな職場とか。
電動自転車の充電忘れたとか。
ひっくり返ったお弁当のなかみがカオスになってたとか。
弟が受験パンクぎみとか。(持ち直したよ)
気候がおかしいこととか。
せっかくのおやすみにも大雨とか。
なんかみんないそがしそうとか。

そういうひびが、いつのまにかふさがれている。
言葉とか、声とか、手紙とか、思いとか、いつのまにか埋められた種で。
思い出してもだいじょうぶになる。
そういうことがわかってきた。


生活のひびにワイルドフラワーの咲いてはなんとなくそこを見る

そういえばの話たち

(ミュージカルを観て以来憑かれたようにスタミュのことをずっと考えていた。)

 

親しいひとたちの結婚のしらせを受けるすこし前、わたしは自分のある歌のことを考えていて、それはちょうど結婚というか、これから一緒に住むふたりの歌だった。

 

 雨の日の引っ越し 前世がノアの舟という箪笥をかつぐ、あなたと 

 

この歌のことを思いだしながら、詠んだ歌はこんな。

 

 ねむいけど箪笥にもたれて話そうか火にも水にもつよいというし

 

この歌をぴろんとLINEしたすぐあとくらいに、お手紙が届いて、そのことを知った。

歌集づくりをお手伝いしてくれた、なかよしの先輩たち。

歌が、記憶が、わたしのなかでとても綺麗につながった。

あんまりうつくしくて、嬉しさとは別にも打ちふるえてしまった。

こんなことってあるんだね。

物語のなかじゃなくても、生きていると、あざやかな伏線回収ってあるんだね。

 

 

わかってたの?

きづいてたの?

 自分で自分に聞いてみても、わかってなかったしきづいてなかったと言う。

 

 

やどかりの負う耳鳴りよ わたしたちそれでも声を待ってしまうね

あなたのこと。きみのこと。わたしのこと。

短歌ムック「ねむらない樹」を買って読んだ。

対談とか書評歌評とかエッセイとかもちろん短歌とか、とりどり豪華でとても面白かった。

歌のなかでは、法橋ひらくさんの、「湖」という連作の最後、

 

あなた、と書けるあなたがいないけど白夜の森の深く、湖

 

この歌がとても好きだと思った。

歌を詠むときなんとなく使ってしまう、「きみ」とか「あなた」。

思い浮かべるひとがいるにはいる時もあるけれど、ぼやぼやと顔が分からないのが大半、ということを改めて認識する。

もっとも、「わたし」だってわたしじゃないのだ。

 

誰だろう。

わたしは言葉の世界で、誰として、誰に向かって、歌をつむいでいるんだろうな。

 

誰でもいいのだと思う。

わたしは言葉の思い出を作りたい、そういう歌詠みなので。

 

暗い森の深くにたたえられる、あおみどりに澄んだ湖。

やさしい闇の、まろい静寂の森の中で、言葉の世界の思い出がいつまでもいつまでも、そこに浮かびあがっては、ひるがえって、また潜って、みなもを揺らしている。やたら鮮明で、これリアルで見たことあるな、みたいなのもある。知っている「きみ」。いつかの「わたし」。でも知らない。知らないけどなつかしい。言葉の世界の「あなた」。

静かなのに混沌としている。あざやかさもきらめきもないけれど、やわらかな、目を細めるようなまばたきをうながす光がある。

そういう風景が、自分のなかにあること。その湖畔にいつでも立てること。

それが分かること。

 

さびしいようで幸福な歌だと思う。

 

 

世界は夏からはじまったのか 言の葉をつかいきるまで海はひろがる

 

 

月のよわい

「I love you.」
「月が綺麗ですね」
という出典不明のあれ、もうずいぶん使い古されているけれど、じっと見つめてみるとやはり名訳なのではないかと思う。

うちのお父さんも、まるかったり明るかったり赤かったりかすんでいたりする月のことを教えてくれる。


父は、夏靴をそろえて先にいて月のよわいを教えてくれる

エコー(夏という夏)

かつての夏なんて、ただの夏休みだったはずなのに、どうしてこの時期に友達のことを思いだすんだろう。

中学生の時も、高校生の時も、わざわざ夏休みに友達と遊びに出かけた、とか、会う約束をした記憶さえないのにな。ひとりでいた分、そのひとがどうしているか考える時間があったからか。

 

神さまがペンを持っていて、世界中のひとりひとりに一瞬ずつ書下ろしをくれるとしたら、その一瞬がきたことをわたしたちはわかるものだろうか。あ、いまだな。いま、神さまがかいてくれた一瞬だったなって、気づけるだろうか。

神さまの手の跡はどんなふうだろうか。あざやかな伏線回収だろうか。あっけにとられるくらい無骨でとうとつだろうか。らくがきみたいに愉快だろうか。

 

思い出をさらいながら、そんな一瞬があったか、すこし考えてみる。ぼんやりしている自分はすぐに気づけないだろうと思うので。

あったかな。

あったのかな。

天使。

指さして「あそこ?」って聞いても、答えてくれない気がする。笑うばかりで。

 

 

ひまわりのこどもが転写されてゆく 光の声が、ひかりのこえが